
8代重豪〜9代斉宣時代にふくれあがった、500万両という借財は、10代斉興時代の調所広郷の政策下で返済を250年賦払いとする措置がとられた。代わりに奄美三島の黒砂糖を藩専売とし、借り主に優先的に取引させた。また琉球密貿易を拡大するなどの政策で、逼迫していた藩財政は復調していった。
調所の死、そしてお由羅騒動の混乱後に藩主となった斉彬は、薩摩藩の富国強兵策を進める。斉彬によって行われたこの政策は「集成館事業」と称される。事業の展開期間は嘉永4年(1851)〜安政5年(1858)までで、斉彬の急死後、藩政を後見した前藩主斉興、藩父久光によってことごとく中断された。
しかし、斉彬によって始められた集成館事業が先行する西欧技術の導入や研究、つまり文明開化の幕開けとなり、明治維新政府によって行われた富国強兵・殖産興業のよき模範となったことは否定できない。
※集成館とは、薩摩藩の磯別邸近隣に形成された工場一群。ピーク時で約1000名の職人が働いていた。
現在跡地は「尚古集成館」として、島津家ならびに斉彬の偉業を展示物等で紹介している。
※列強の接近に対する警戒心が斉彬の富国強兵論、そして藩政改革へと結びついている。
19世紀に入るとイギリス・アメリカといった列強諸国が近海に出没し、幕府はその処理・対応に苦慮した。
文化3年(1806)
文化の薪水給与令・・・燃料や水の補給に応じて穏便に退去してもらうという処置(19世紀前半に度重なる英船の乱暴)
(例)文化5年(1808)フェートン号事件
(例)文政元年(1818)ゴルドンの通商要求
文政8年(1825)
異国船打払令近海に出没した異国船は理由を問わずすべて打払う。
天保11年(1840) 清国でアヘン戦争が勃発
天保13年(1842) 天保の薪水給与令(文化の薪水給与令に戻す。)
<製鉄:反射炉・溶鉱炉の建設>
嘉永5年(1852)磯御殿(現:鹿児島市吉野町)の近隣を開削し、「反射炉」を築造開始し、安政4年(1857)に完成。(のち2号炉まで建造)反射炉とは鉄の溶解炉であり、やがて高炉(溶鉱炉)が出現して姿を消すが、江戸時代には各地に建造された。佐賀藩が初めて実用炉の建設を行い、幕府も阿部正弘が韮山代官江川太郎左衞門英龍(ひでたつ)に命じて建設を行っている。
そもそも薩摩藩内では、南部沿岸の砂鉄を石組の製鉄炉で溶かし大阪市場に出荷していたが、こうした従来の「たたら製鉄」や「甑炉(こしきろ)」で得られる鉄は炭素含有率が高いため亀裂が生じやすい銑鉄であったため、斉彬が意図していた大砲鋳造には不向きであった。そこで炭素含有率の低い強固な「錬鉄」を生成するため反射炉の築造が行われた。また、鹿児島産の砂鉄は不純物を多く含むため、不純物を取り除き良質な銑鉄を得るために高炉(溶鉱炉)の建造計画も同時に進められ、安政元年(1854)年には反射炉の完成に先駆けて大量の銑鉄を生成することが可能になった。斉彬の製鉄事業によって大砲が鋳造され、文久3年(1863)の薩英戦争ではこの大砲が大いに威力を発揮した。
※斉彬談「日本在来の鉄は良質ではないため、鋳砲の材料に供しがたく、よって西洋の技術をもって銑鉄を精製しなければ反射炉は無用の長物になってしまう」
<造船:洋式帆船から蒸気船へ>
安政元年(1854) 日本初の洋式帆船「伊呂波丸」完成
同年 「超通船(おっとうせん)」完成
※嘉永4年(1851)に琉球に上陸した中浜万次郎(ジョン万次郎)は、長崎奉行に引き渡されるまでの間は薩摩藩が身柄を預かった。この間、万次郎から得たアメリカの捕鯨船構造情報が、この「超通船」の構造に生かされている。
同年 日本で2番目の洋式軍艦「昇平丸」完成
※幕府が建造した「鳳凰丸」が日本初の洋式軍艦であるが、昇平丸はのちに幕府に寄贈され(昌平丸と改名)、外国船との区別のために「日の丸」が掲揚された。日の丸はのちに明治3年の太政官布告で日本商船に掲げる国旗として規定される。
安政2年(1855)「大元丸」「承天丸」「鳳瑞丸」「万年丸」完成 うち大元丸と鳳瑞丸は幕府に売却された。
嘉永4年(1851)より江戸藩邸にて蒸気動力についての研究も開始し、安政2年(1855)に完成させ、船体への取り付けと運行にも成功している。この船が日本初の蒸気船「雲行丸」。
<紡績>
指宿の豪商8代目浜崎太平次から献上された西洋綿布の精密さに驚き、品質の高い綿布生産を意図した。とくに帆船の帆布はその多くを大阪から買い入れていたため、藩内での大量生産でまかなうことが期待された。
<電気通信>
安政2年(1855) 宇宿彦右衞門(うすきひこうえもん)・肥後七左衛門・梅田市蔵に命じて、緒方洪庵らが翻訳した電気・電信に関する洋書をもとに、電信機の製造を命じる。
安政4年(1857)鶴松城の本丸休と二ノ丸を約600mの電線で結び、通信に成功している。
<硝子製造>
美しい薩摩切子の製法を確立。薩摩切子は美しいグラデーションに特徴があり、輸出美術品として珍重された。
前出の宇宿彦右衞門らに命じて色硝子の製法を研究させた。「薩摩の紅硝子」と呼ばれる赤い硝子は、当時薩摩だけが精製できる硝子であった。
斉彬の急死によって縮小し、薩摩切子の技術も幻の技術を呼ばれたが、集成館の硝子事業に関わった職工たちは明治維新後に新政府によって建造された硝子工場でその技術を発揮したといわれている。
<陶磁器>
硝子とおなじく輸出工芸品とした。伝統的な「薩摩焼」に外国向けの特殊な色絵付けを施した。
岩下方平 慶応3年(1867)にパリで開催された万国博覧会に薩摩焼が出展される。薩摩焼は「SATSUMA」と呼称され人気を博した。
※ 薩摩焼は文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の際に、半島から連れ帰られた陶工によって創始された。
<洋式銃の製造>
幕末期に最も多く輸入された銃は「ゲベール銃」であった。これは球形弾丸を「火打ち石(燧石)」の火花を火薬に引火させて発射する銃(フリントロック式)で、先込銃(さきごめじゅう)。従来の火縄銃に比べると雨に強かったが、大量生産を目的に作られたため照準器が標準装備されておらず、命中率は火縄銃より悪かった。
※ゲベール銃は高島秋帆(たかしましゅうはん)が天保2年(1831)にオランダから輸入したのが始まりとされる。
集成館では、これまでの燧石式の着火法から、雷管式の着火法への改良を試みている。このとき、雷管の起爆薬として用いられた「雷酸水銀(二価)」の精製に大量のアルコールを必要としたが、薩摩芋で精製した「芋焼酎」を流用した。※この薩摩の芋焼酎を名産とするべく、品種の改良も行った。
<ガス灯>
のちに明治政府の外交官として著名な寺島宗則(松木弘安)は薩摩藩の出身で、長崎で蘭学を修め、斉彬の侍医でもあった。この松木に命じて炭酸ガスの発生とガス灯に関する典籍を調査させ、安政4年(1857)に点灯実験に成功している。鶴丸城の庭園にガス灯を入れる予定であったが斉彬の急死により中止となった。
<写真>
集成館では銀盤写真の技術研究も進められた。現在尚古集成観に所蔵されている斉彬の銀盤写真は日本最古の写真とされている。
<その他>
錫工の研究 製薬 製油 製塩 農具開発 水車動力の研究 出版事業 発電の研究