篤姫
左から
寺田屋事件址・・・薩摩藩は多くの有能な志士を失った。
藤田東湖像・・・水戸藩徳川斉昭の腹心、西郷にも多大な影響を与えた

西郷隆盛を見出す

 「順聖院様(斉彬)がなぜ私を重用されたのか、その理由を知らないのだ・・・」
西郷は維新後、斉彬を偲んでそうつぶやいたと言われる。大久保利通・木戸孝允と並び「維新三傑」と呼ばれた西郷を見出したのは斉彬であった。

 お由羅騒動の混乱後、藩主となった斉彬であったが、彼を擁護する家士はこのお由羅騒動の際にすべて処分されていたため、有能な人材の発掘は斉彬の意図する藩政を推進するために不可欠であった。こうした中、斉彬がもっとも期待をしたのは若い家士層であった。

 藩内では、8代藩主重豪による造士館設立以来、儒学派閥による対立も見られたが、優れた藩士が成長しつつあった。近思録崩れ・お由羅騒動という大規模なお家騒動から藩財政の破綻、さらには幕府・諸藩を警戒させた外国船の接近と、時局は大きな変動期にさしかかっており、薩摩藩内でもこうした時局に対する対処法を考える家士が増えていた。
   こうしたなか加治屋町の二才(にせ:青年階層を指す薩摩の言葉)を中心に、リーダー的存在の西郷吉之助・吉井仁左衞門(のち友実)・大久保一蔵(のち利通)・有馬新七(のち寺田屋事件で落命)・伊地知竜右衛門(のち正治)といった若い家士たちが集まり、「誠忠組」という改革派集団を形成していた。

 斉彬が藩主となって初めてのお国入り(藩領に帰ること)の際、西郷は斉彬に宛てて建白書を提出したと言われる。内容は詳細には伝わらないが、
 @斉興時代の残存家士を処分または藩政から遠ざけること
 Aお由羅騒動によって処分された有能な家士の恩赦
 B軍制を改革し、水戸藩に範をとった士気振興策
  といった内容であったらしい。  この斉彬お国入り前にも藩庁に数多くの建白書を提出したことから、西郷は何をもって斉彬の目に止まったのかわからないと言っていたらしい。

 安政元年(1854)、西郷は郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ:農政担当官の書記官補助)から中御小姓・定御共(なかこしょう・じょうおとも)で江戸詰を命じられ、斉彬の江戸参府に随行した。この江戸へ出発する際、水上坂(みっかんさか:城下から出て最初の峠。別れを悲しみ、また帰国を喜ぶ坂だった)で、西郷を召し出した。これが初の謁見となった。

 のち江戸で庭方役(にわかたやく)に任じられ、斉彬の近習となった。通常、西郷のような下位身分層が藩主に謁見したり、意見を交わすことは封建制度上困難であるが、邸宅の庭を管理するという役職につけることで身近に引き寄せ、親しく意見を交わすことが可能となる。斉彬は西郷を呼び寄せ、藩政の方向性はもちろん、アジア観や幕府改革案などの薫陶を授けたが、西郷と会っているときは膝を打つ扇子の音や、煙草盆でキセルを叩音が普段より大きかったと言われている。(それだけ西郷の考えに感心し、その会談を楽しんだようだ。)

 西郷は、安政3年(1856)の篤姫輿入の際には、斉彬の命を受けて奔走し、橋本左内(福井藩士)や藤田東湖(水戸藩)ら幕末を代表とする博識とも広く交友し、次第に名を知られるようになっていった。

 当時斉彬は一橋慶喜の次期将軍擁立に動いていたが、安政4年(1857)の老中阿部正弘が急死、さらに井伊直弼の大老に就任によって形成は不利となる。※西郷は朝廷に働きかけて、一橋慶喜を勅許によって後継に指名させようと奔走していたが、これは失敗に終わっている。

 井伊による安政の大獄で一橋慶喜擁立派に容赦なく処分が下される中、斉彬は大軍を上京させ幕政改革の勅許を得て、そのまま江戸へ進軍させる計画を立てる。西郷は江戸の情勢を斉彬に報告する一方、朝廷工作に奔走していたが・・・・斉彬が急死する。西郷は墓前で殉死をすることを決意した。

 しかし、その行為を清水寺成就院の僧侶で西郷が行っていた様々な朝廷工作の橋渡し役となっていた月照に諫められ、斉彬の意志をついで藩政に尽力することを約したと言われる。

 しかし、斉彬の後、藩主となったのは異母弟(由羅の子)久光の子忠義であったが、藩政は斉彬の父斉興が後見し、藩政は一変、斉彬路線はことごとく否定され、もはや西郷の居場所は存在しなかった。

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