篤姫
左から
・ペリー像(横須賀) ・徳川家の家紋

藩主就任と幕政参与

 平成20年のNHK大河ドラマは「篤姫」である。原作は宮尾登美子氏。脚本は田渕久美子氏。 宮尾登美子氏は言わずとしれた女流文学者。一貫して女性をテーマとした作品を執筆し、太宰治賞・女流文学賞・直木賞など名だたる賞を受賞されている。また田渕久美子氏は数々のヒットテレビドラマの脚本家として知られ、最近は、泰葉(林家三平の次女)さんと起業したことでも話題を提供している。
 女性二人のコンビで描かれる激動の幕末・・・。ぜひ、史実性を大きく逸脱しドラマ性を追求しすぎることなく…と願ってやまない。

 「篤姫」天保6年(1835年)島津氏の庶流今和泉家の島津忠剛(ただたけ)の長女として誕生した。名を於一(おかつ)・一子(かつこ)といった。父の忠剛は斉彬の叔父(斉宣の子)であるが、生来病弱であったことから於一の生母お寿満の方が今和泉島津家を守り、於一に武家の息女としての心得を躾けた。


篤姫は天保6年(1835)12月19日誕生とあり、嘉永6年(1853)に19歳で斉彬の養女になったとある。産まれた時に1歳、その後、年が改まる(元旦)時に加算していく「数え年」で計算すると、養女となった1853年に19歳となる。天保7年や1836年の誕生とする表記は誤り。
(※鹿児島県史料「旧記雑録・追録8(天保7〜明治28)」より)


 一方、12代将軍家慶の子はそのほとんどが夭折しており、世子家定も病弱で内向的な性格であった。
※徳川家定の遺骸検証はなされていないが、脳性麻痺であったとする説がある。数少ない白書院での執務では常に頭が揺れ、足を踏みならす様子が目撃されており、こうした脳性麻痺の典型的な症状については米使節ハリスが面会した際にもあったという。

 また、家定の正室鷹司任子が嘉永元年(1848)に病没し、さらにその後に正室となった一条秀子も嘉永3年(1850)に病没した。こうした将軍世子の正室が相次いで死去したことに対し、かつて16人の側室を有し、男子26人・女性27人に恵まれた11代将軍家斉の隆盛にあやかろうと、家斉の御台所を輩出した島津家に対し入輿の要請があった。

※島津重豪の息女茂姫は一橋豊千代と婚約。のち豊千代が11代将軍に決定したが、将軍御台所は慣例として五摂家もしくは宮家から迎えるものとされていたため、茂姫の出自が問題になった。
 しかし、重豪の曾祖父継豊は5代綱吉・8代吉宗の養女竹姫を正妻に迎えており、重豪の正妻は吉宗の4男一橋宗尹の息女保姫であった。(12代家慶は一橋宗尹の曾孫にあたる。)こうした姻戚関係を背景に、茂姫輿入れは竹姫の意志であるとして重豪が強く主張したため茂姫は一旦近衛家に養子入りし、近衛寔子(ただこ)と改名して婚儀となった。

 島津家に対する家定正妻輩出の要請は、時の老中阿部正弘と斉彬が懇意であったことも背景とされる。 嘉永6年(1853)に斉彬は於一を実子として幕府に届け、養女として於篤と改めさせた。ここに篤姫の呼称が始まる。篤姫はこのとき鶴丸城に入り、輿入れの準備のため江戸藩邸に移った。
 ペリー来航・家慶の死去・開国といった問題のため、輿入れは延期されていたが、安政3年(1856)近衛家の養女となり近衛敬子(すみこ)と改名。安政4年(1857)に婚礼を上げた。

 斉彬は篤姫を通じて、問題となっていた家定の継嗣に一橋慶喜をつけようと画策した。しかし、安政の大獄が進展するなか家定の継嗣は紀州藩主徳川慶福に決定し、斉彬は安政5年(1858)7月に、さらに翌月には家定も死去したため、篤姫の使命は消滅することとなった。家定の死去により落飾(出家)し、天璋院となった篤姫は、江戸城大奥で激動の幕末を生きることになる。
※落飾といっても御台所特有の髪結い型である「尾長」の先端部分を切るだけ。ちなみに武家社会の女性は髪型で身分がある程度判別できる。

【受験日本史関連用語】


安政の大獄  徳川慶福  大奥

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