
お由羅騒動により斉彬が藩主となったのは42歳であった。満を持して藩主となった斉彬は、薩摩藩の富国強兵につとめた。(集成館事業)
江戸での世子時代が長かった斉彬は、越前福井藩主松平慶永(春嶽)や、宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、土佐藩主山内豊信、そして水戸藩主徳川斉昭など、当代きっての英明藩主と早くから通行があった。また曾祖父重豪は11代将軍家斉の岳父であり、幕府要人とも幅広いつきあいがあったため、斉彬はその恩恵もあり老中阿部正弘と早くから昵懇であった。阿部との関係はお由羅騒動後に斉彬が藩主となったことからも伺える。
水野忠邦よる天保の改革が失敗に終わると、老中阿部正弘は内憂外患の国難に対処する手法として挙国一致政策を推進していた。すなわち、これまでの譜代大名による独裁政治を改め、親藩・外様大名からも広く意見を募り対処していくという手法であった。とくに嘉永6年(1853)にアメリカ使節ペリーが浦賀に来航すると、朝廷に事態が報告され、挙国一致の傾向はより強くなっていった。
そうした阿部正弘の政策に世子時代の斉彬も、公ではないにせよ阿部に対して意見を述べるなどしていたと考えられる。正式に藩主になってからは、烈侯と呼ばれた水戸藩徳川斉昭を筆頭に、越前福井藩松平慶永・土佐山内豊信、宇和島藩伊達宗城に斉彬を加えて四賢侯と称され、将軍継嗣問題に際して一橋派を形成した。
しかし、老中阿部正弘が安政4年(1857)に死去し、翌安政5年(1858)に井伊直弼が大老に就任して幕政を掌握すると、一橋派に対する弾圧が始まった。安政の大獄である。徳川斉昭は永蟄居となり、松平慶永・山内豊信・伊達宗城らは謹慎となった。この処分に対して、斉彬は藩兵5000人を伴って上洛し抗議するつもりであったが、出兵のための練兵中に急死した。