
次期藩主の座や藩政改革の方向性を巡る藩内の対立を「お家騒動」と言う。
幕府は大名統制の観点からお家騒動に介入し、関係者の断罪から藩の改易といった処分を行ったが、江戸中期以降はほとんど介入しなくなった。このためお家騒動は藩内で処理されることが多くなるが、藩主の求心力を停滞させ、藩の弱体につながることも少なくなかった。島津家でも斉宣(斉彬祖父)・斉興(斉彬父)の藩主時代にこうしたお家騒動が発生し、斉彬も藩内の対立に大いに巻き込まれていった。
斉彬の曾祖父重豪は天明7年(1787)に藩主の座を嫡男の斉宣(斉彬祖父)に譲
り、寛政6年(1794)まで藩政を後見したが、重豪時代の江戸定府留守居家老市
田盛常が藩政に影響を及ぼし続けた。
市田は11代将軍家斉の御台所となった重豪の娘茂姫の生母(お登勢の方)の弟で
あった。この茂姫(篤姫)は重豪の3女として誕生し、天明元年(1781)に一橋
豊千代に輿入れ(当時9歳)した。御三卿一橋家との縁組みは老中田沼意次の斡旋
もあって実現したが、この豊千代が天明6年(1769)に11代将軍家斉となる。茂姫
は慣例により近衛家の養女となり、寛政元年(1789)に婚礼が行われて正式に御
台所となった。
ちなみに茂姫はもと篤姫といい、御台所になる際に改名している。後に島津家か
ら出て13代将軍家定の正室となった篤姫(斉彬養女)はこの茂姫の前名にあやか
ったと言われている。
茂姫生母の於登勢一派(市田氏)が藩内でも、また重豪に対しても大きな勢力を
有したことには必然性があった。重豪の正妻保姫は明和6年(1769)に没したが、
翌年に迎えた後室の甘露寺綾姫(5代藩主継豊の正妻竹姫の遠縁にあたる)も安永
4年(1775)に没した。本来であれば嫡男斉宣の生母である於千万の方(堤氏)
が正室格として扱われるはずであったが、将軍御台所の母という於登勢の方の存
在には及ばなかった。
こうした中、文化2年(1805)に斉宣は「亀鶴問答」という文書により藩の財政
改革に着手することを宣言し、重豪時代の重臣達の多くを罷免した。市田盛常は
家老職罷免を免れたが、国元では斉宣により秩父季保(ちちぶすえやす)・樺山
久言(かばやまひさこと)が抜擢され、藩政に従事した。樺山家は島津一門の有
力家臣であり、季保は多読を避け一書を精読するという自らのポリシーを実践し
、もっぱら「近思録」を講読した。
人望もあった季保の周りには自然と若い藩士が集い、近思録党と呼ばれる一派を形成するに至った。この「近思録」は、朱子学の大成者である朱熹(しゅき)が儒学先達の遺文を集めたもので、朱子学の精髄と位置づけられる名著である。こうした儒学の学派が藩政の方向性を巡る対立の基本単位となったことで、藩校造士館の儒学教育は混乱し停滞した。この造士館の再生をのちに斉彬が進めることとなるのであるが、西郷隆盛・大久保利通などはこの造士館出身者である。
斉宣と近思録党の藩政改革は、重豪の政治を放漫政策として否定し、質素倹約を進める徹底した緊縮財政論に背景をとったため、必然的に重豪との対立を深くしていった。
享和元年(1801)、於登勢の方が死去すると、勢力の後退をおそれた
市田盛常は、国元にいた斉宣の母於千万の方を江戸藩邸に移そうと画策した。こ
れは藩主斉宣が参勤交代で在府中に国元の情勢が伝わるのを妨害するという意図
があった。こうした市田の動きに近思録党は警戒心を高め、文化5年(1808)に市
田は斉宣によって家老職を突如罷免された。以後、近思録党による藩政改革は、
徹底した緊縮財政と琉球交易の拡大、さらにこれまで重豪の意向により進められ
てきた蘭学関係施設が閉鎖されるなど急進的になっていった。
しかし、市田の家老職罷免から一気に藩政改革を軌道に乗せようとした近思録党であったが、重豪は隠居しているとはいえ、その政治手腕を発揮して反撃に出た。
まず市田の後任として江戸に赴任した島津安房の幕府老中への目通りを裏に手を回して不許可とさせ、国元へは樺山・秩父に謹慎を命じた。
斉宣はこれら近思録党を擁護すべく定例の参勤交代を「重病」を理由に延期し、父重豪に対抗する
構えを見せていたが、この「重病」という理由が重豪に利用され、「重病の斉宣に変わって藩政を執る」という名目により近思録党は排除された。
樺山・秩父をはじめ13名が切腹、遠投25名、寺入44名、逼塞19名、軽処分11名と処分者は112名
にも及んだ。後のお由羅騒動より処分者が多いこの「近思録崩れ」は、近思録党なる結党に対する処分であったと理解されている。
これにより斉宣は藩主の座を追われ、文化6年(1809)に10代藩主斉興が就任した。斉宣は鹿児島へ帰ることは生涯許されなかったが、父重豪が亡くなる前には看病のために同居しており、晩年親子関係は修復されていたようである。