
島津重豪という人
<島津重豪略歴>
享保14年(1729) 第5代藩主 島津継豊の次男重年(重豪の父)誕生。
(※当初重年は島津一門家の加治木島津家を相続。)
元文 4年(1739) 第6代藩主 島津宗信(継豊の長子)就任。
延享 2年(1745) 島津重年の長子として重豪誕生。
寛延 2年(1749) 宗信、22歳で夭折。 第7代藩主に重時就任、同時に重豪世子となる
宝暦 5年(1755) 重時逝去 第8代藩主に重豪が就任(9歳)。
(※重豪幼少につき、5代藩主継豊が後見。)
宝暦10年(1760) 島津継豊逝去。
(※重豪の藩政改革はじまる。)
天明 7年(1787) 重豪隠居。9代藩主は嫡男の斉宣(斉彬の祖父)
斉彬の曾祖父島津重豪(しげひで)はその名に恥じず、豪放で些事に捕らわれない質実剛健な人物であった。若い頃より蘭学に興味を示し、隠居時代には長崎オランダ商館を見学したり、オランダ船に乗ったりもしている。また、唐話と日本語の対訳単語集である『南山俗語考』や、物産学の書物である『成形図説』、藩史『島津国史』を刊行するなど開明的な人物であった。
重豪が藩主に就任した当時、薩摩藩に限らず諸藩では財政窮乏が深刻化した時代であった。薩摩藩の債務は100万両にまでふくれあがり、金利が年間約8万4千両であった。藩の収入は約10万両であったから1年間を約1万6千両で収める必要があるという計算になる。現代に置き換えてみると、一般サラリーマン家庭の平均年収が約500万円として、借金が5000万円あり、返済に420万円費やすということになる。物価係数の違いはあるが、当然のことながら1年間を1万6千両(現代では80万円)ではしのげない。しのげないからまた借りる…の悪循環であった。
宝暦5年(1755)当時、幕府は9代将軍家重の治世であったが、8代将軍吉宗の「享保の改革」による増税と、その年の凶作により各地天領に一揆が続発した。江戸幕府と諸藩によって統治されるこの幕藩体制では、幕府が諸藩の政治に介入することはなかったが(全国令は別)、諸藩政は幕政を模倣することが多く、農村一揆の発生数は激増した。現岐阜県郡上市で発生した「郡上一揆」では、郡上藩主金森家が国替えとなり幕府官僚から首謀農民に至るまで大量の処罰者を出すという大規模なものもあった。
また、貨幣経済の波は農村にまで及び、年貢納入の責務を負う本百姓には土地を質流れで失い、都市部へ流出するものが多かった。その一方で流れた土地を集積して地主化する本百姓も出現し、富裕化した彼らは金銭収入を得やすい商品作物の栽培に土地を利用した。時勢は貨幣経済の高まりと商人層の富裕化、本百姓体制の崩壊よる年貢減収に翻弄される武家社会といった体をなしていた。重豪は多難な時代に藩主となったが、孫の斉興の代(8代重豪・9代斉宣・10代斉興・11代斉彬)に調所広郷が財政再建策に着手する頃(1832年頃)には、薩摩藩の借金は500万両という天文学的数字にまでふくれあがっていた。そして、この莫大な借金を作った張本人は重豪であった。
重豪も祖父継豊による後見時代には質素倹約につとめ、自ら家臣に範を示したと伝えられているが、継豊没(1760)後は独自性を発揮した。彼が最も懸念したのは他藩に比して先進開明的要素が著しく遅れ、保守的で閉鎖的な風潮が多く残る点であった。
このため、計画段階で棚上げになっていた藩学「造士館」を安永2年(1773)に開設し、敷地内に弓術・剣術道場「演武館」を設置して文武両道を奨励し、翌年安永3年(1774)にはさらに敷地内に漢方を研究するための医学院を、安永8年(1779)には天文学を研究する「明時館」を開設するなど施設を拡充させていった。
こうした施設拡充は当然のごとく藩財政を逼迫させたが、もう一つの要因として指摘できる点は、その姻戚関係の拡大にある。そもそも島津家では徳川将軍家との姻戚を敬遠する風潮があったが、継豊(5代藩主)の正妻には8代将軍吉宗の養女竹姫が輿入れしており、重豪(8代藩主)の正妻は一橋宗尹(8代将軍吉宗の三男)の息女保姫であった。
また、重豪の娘茂姫(篤姫)は11代将軍家斉の御台所(正室)となり、また他の娘達も積極的に有力大名に輿入れさせた。特に徳川将軍家との姻戚関係からか重豪は「高輪下馬将軍」(高輪に藩邸が所在した)と呼ばれたが、こうした将軍家や有力大名家との姻戚関係が、接待・遊興費を中心に支出を増大させ、藩財政逼迫の要因となった。しかし、重豪のこうした施策は、英明な斉彬の成長に大きな影響を与え、長じて幕政に参与する背景になったと言える。