島津
左から
西郷隆盛・勝海舟会談の地・・・この会談により江戸は戦火から免れた。
島津久光(画)
ジョン(中浜)万次郎・・・・・彼のアメリカでの経験を斉彬は非常に高く評価した。

死後 そして残ったもの

(1)集成館事業
 その多くは忠義時代に中断されたが、薩英戦争(文久3年・1863)では、集成館工場群の多くを砲撃され甚大な被害を被ったが、80門の大砲を備えた砲台は、イギリス側に軍艦3隻(大破1・中破2)・死者63名の被害を与えた。新型アームストロング砲の威力は絶大であり、薩摩藩側は明らかに劣勢であった。しかし、集成館事業によって培われた技術や生産された兵器は確実に威力を発揮した。
 明治維新後、新政府よって推進された殖産興業=産業革命に多大な影響を与えた事業であったと言える。

(2)西郷隆盛と征韓論
 斉彬によって見出された西郷は、明治6年(1873)征韓論(渡韓論・遣韓論)を提唱した。 斉彬は「大陸出撃策」を著し、列強に先んじて朝鮮・中国に進出することを説いたが、あくまでも西欧の優れた技術や思想を吸収した上で可能であるとしたものと解されている。
 西郷が征韓論を提唱した明治6年の時点は、中央集権構造の確立期であり、産業革命はまったくの未成熟であった。こうした情勢下に征韓論を主張した西郷の意図は不明であるが、西郷のアジア観に斉彬の思想が影響していることは否定できない。

(3)島津久光と薩摩藩
 久光は明治維新後、新政府にとって最大の頭痛の種となった。
 西郷・大久保らを中心に幕府が倒され、新しく成立した新政府では武士身分の特権は剥奪された。つまり封建的身分序列の否定と徹底した法治主義による国内統治、産業革命と貿易促進による経済拡大といった近代化政策が推進されたわけだが、久光にはこれが納得いかなかった。
 明治10年(1877)に西郷が西南戦争で敗れるまで、鹿児島はあたかも独立国かのような異様な状況にあった。
 島津家が維新後も特別視されたことは、維新政府による統治上の問題はさておき、重豪による開明策から斉彬のみならず幕末歴代藩主による富国強兵策が功を奏したといえる。

(4)篤姫
 斉彬の養女篤姫は13代将軍家定の正室となったが、一橋慶喜を継嗣とする使命をもっていたが、大老井伊直弼による譜代直裁への回帰政策により継嗣は紀伊藩主徳川慶福に決まり、彼は14代に就任した。
 家定の死によって落髪して天璋院と名乗った篤姫にとって家茂とのちに家茂に降嫁した皇女和宮は義子となる。斉彬の薫陶を受けた人物は多いが、天璋院篤姫もその一人であろう。
明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いの後、維新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府を代表する勝海舟の会談によって江戸城は無血開城となったが、篤姫は和宮とともに島津家や朝廷に働きかけ、慶喜の助命と徳川家存続に尽力したとされている。

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