
安政4年(1857)4月23日 大老に近江彦根藩主井伊直弼が就任。内憂外患への対処をこれまでの譜代中心政治により進める方針を打ち出し、6月19日対米通商条約に調印、6月25日に将軍継嗣を徳川慶福(紀伊藩主)と決定。開国・将軍継嗣決定に対し、批判的な意見を唱えていた一橋派を中心に徹底した処分を行った。世に言う安政の大獄である。
※斉彬への処分も検討されていたと思われるが、現行将軍家定の正室篤姫は斉彬の娘(養女)であることから見送られた可能性が高い。
こうした井伊直弼による恐怖政治の進行を食い止めるため、斉彬は朝廷勅許による幕政改革実行を計画した。藩兵5000人(3000人とも)を率いて上洛し、そのまま江戸に進軍するというもの。
安政5年(1858)7月8日、斉彬は錦江湾(鹿児島湾)を臨む天保山の調練所で上洛軍の調兵を観覧。猛暑の中、炎天下で観覧していた斉彬は生水を何杯も飲んだ。翌7月9日にわかに発熱。侍医坪井芳洲(つぼいほうしゅう)・朝稲三益(あさいねさんえき)・清水養正(ようせい)らが治療に当たったが、坪井芳洲の診断書によれば、7月11日に40回、12日に33回、13日に34回、14日に23回も下痢をしたと記録されている。君主の重病が藩内に伝えられると、回復を願って近隣の神社仏閣に多くの家士が殺到したと言われる。
そして7月15日、病床に弟久光を呼び、
(1)次期藩主に久光の子忠義をつけること
(2)忠義の正室に三女?姫(てるひめ:偏は日・旁は韋)を迎えること
(3)忠義が成人するまでは久光が藩政を後見すること
(4)六男哲丸(正室英子の子)を忠義の養子として次期世子とすること
などを遺言。7月16日49歳で薨去した。
死因説1 赤痢(痢病:しぶりばら)…炎天下に飲んだ水が原因?
死因説2 コレラ…炎天下に飲んだ水が原因?
死因説3 食中毒…前日までの食事が原因?
死因説4 侍医による薬の処方ミス
死因説5 呪詛…お由羅派の復讐か?
死因説6 毒殺…お由羅派の復讐か?
これらの死因に関して、藩内でもっぱら噂されたのは第5説と第6説である。斉彬は11人の子どもに恵まれたが、成人したのは女児3人のみ。忠義の世子となった六男哲丸も安政6年(1860)に2歳で夭死している。
※斉彬の子ども達(年齢はすべて数え年)
長男 菊三郎 文政12年(1829)生後40日で夭死
次男 寛之助 嘉永元年(1848)4歳で夭死
三男 盛之助 嘉永3年(1850)4歳で夭死
四男 篤之助 嘉永2年(1849)2歳で夭死
五男 虎寿丸 安政元年(1854)6歳で夭死
六男 哲丸 安政6年(1859)3歳で夭死
長女 澄姫 天保11年(1840)4歳で夭死
次女 邦姫 天保11年(1840)3歳で夭死
三女 ?(偏は日・旁は韋)姫 島津忠義正室
四女 典姫 島津珍彦室 ※しまづうずひこ 久光の三男で重富島津家を相続
五女 寧姫 島津忠義側室
島津家には「兵道」という呪詛術が伝来するが、秘術であるため手法は口伝され実態は不詳。
薬事と祈祷術を融合した独特の手法を用いたようで、本来は治国平安術を祈祷する術であった。このため私意を以て個人を呪っても効かないとされていた。しかし、斉彬世子時代に兵道家の牧仲太郎が由羅付きの広敷番(ひろしきばん:主に人の出入りを確認する役)に取り立てられたことで藩内の斉彬派は色めき立ち、当の斉彬も国許の斉彬派に由羅の動向を逐一報告させ、さらに怨敵退散の祈祷や妖気払いの儀式まで行わせている。
こうした事実から、斉彬の死が呪詛によるものであるとする説がささやかれ、西郷隆盛もその説を専ら信じていたとされている。斉彬没後、島津家はお由羅の子久光の血統によって存続したという状況も呪詛説があたかも確定説のように言われる理由であろう。
江戸の大工の娘かはたまた八百屋の娘か・・・由羅の生い立ちは明らかではないが、斉興との間にもうけた3人の子どもの内、久光意外はいずれも夭折しており、「お由羅騒動」後も処罰問題が浮上するわりには実施されていないことなどから、一概に斉彬の死をお由羅派の呪詛によるものとするのは軽率である。