
島津斉彬は、文化6年(1809)旧暦3月14日、薩摩藩第10代藩主島津斉興の長男として江戸芝の藩邸で誕生した。母親は因幡鳥取藩主池田治道の三女弥姫・周子(いやひめ・かねこ)。
母親の生家池田家は、安土・桃山時代、織田信長に仕えた池田恒興に始まり、その子輝正は徳川家康に仕えて播磨姫路藩52万石として重用された。その後、徳川家との姻戚関係を背景に、転封・加増等により宗家・庶子家が中国地方の備前岡山・因幡鳥取に封じられ、一族の総石高は60万石を超え、「西国将軍」と呼ばれるまでに家格が高まっていた。周子の父池田治道は財政窮乏にあった鳥取藩を立て直すべく藩政改革に着手した人物で、効果はさほど上がらなかったが、志を高く評価されていた人物であった。
周子は当時の慣習に縛られない聡明な人物で賢婦と評された。周子の興し入れ道具には漢籍入りの本箱が含まれ、具足も一揃え入っていたという。いぶかった薩摩藩士が具足について問いただすと、「斉興公が不在の際に、変事があった場合の備えである」と答えたという。自身に薙刀の武技があり、相当の腕前であったと伝わっている。通常、大名の子息は養育を乳母に一任し、生母が懐抱の情を与えることはなかったが、周子は子供を自ら養育した。
斉興との間に斉彬・斉敏・侯姫の2男1女(実際は3男2女。1男1女は夭逝した。)をもうけたが、嫡子斉彬には薩摩藩主としての帝王学を、次男斉敏には他家を継ぐ者の、四女候姫には他家に嫁ぐ者として厳格な養育を施した。
たとえば、斉彬は厳冬に湯で洗顔することを許したが、斉敏・候姫には真水で洗顔させた。また斉彬には周子自ら漢籍を講じたが、斉彬が落涙することも少なくなかった。
周子は斉彬が16歳の時、34歳の若さで逝去したが、斉敏はのちに備前岡山藩の池田斉政に養子入りし、家督を継ぐと賢君と評された。また候姫は土佐藩山内豊煕(とよてる)に嫁ぎ、豊煕に養子入りした豊信(容堂)を養育した。豊信(容堂)はのちの斉彬を「薩摩守は天資沈毅(てんしちんさ)、その量は紅海の如く、その度は泰山の如し。彼の率いる薩兵は士気鋭く、馬騰がる」と評した。詩的感覚に優れ、多くの名歌を残した容堂の才能は、養母候姫によるところが少なくないであろう。
斉彬は幼名を邦丸といい、4歳で世子(世継)となり、13歳で元服して又三郎忠方(ただかた)と名乗った。又三郎は島津家嫡子に代々伝わる幼名で、第6代(南北朝期)当主氏久の幼名に由来する。母周子の養育もさることながら、その曽祖父である第8代藩主重豪(しげひで)の影響を強く受けた。島津重豪については後述するが、娘茂姫(篤姫とも)は徳川家斉(11代将軍)の御台所であり、大御所家斉の岳父(義父)として威勢を誇った人物である。42歳の若さで嫡子斉宣(なりのぶ)に家督を譲り、斉宣成人までは後見したが、その後高輪の下屋敷に隠遁した。この高輪御殿と呼ばれた隠居所は西洋の珍品に溢れ、重豪自身も見事なオランダ文字を書き長崎オランダ商館医シーボルトとオランダ語交じりで会話したほどの洋学かぶれであった。
斉彬が西洋の技術に高い関心と興味を示し、反射炉・溶鉱炉の建設や、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を推進したことは、聡明な斉彬が幼少期から青年期にかけて重豪が見せ、手に触れさせた西洋文物との出会いが基底をなしている。
斉彬6〜7歳の頃、重豪が手洗鉢としていた長崎舶来のガラスの水盤を突然頂戴したいと申し出た。かわいい曾孫の所望とあらばと重豪は惜しげもなくその水盤を斉彬に与え、突然申し出た理由聞いた。斉彬は「毎朝、近習がこの水盤へ水を移すのを見ていると、壊れやすいガラス製であるからいつだれが壊すともわからず、またもし壊しでもしようものならその近習は罪を免れることはできないであろうと心配でした。私が頂戴することで近習たちの心労をなくしたいだけです。」と説明した。重豪は斉彬の行く末に期待し、相好を崩して喜んだと言われている。