
元治元年(1864)、新撰組の「池田屋騒動」、そしてそれに起因した「蛤御門の変(禁門の変)」が起こったこの年、島津斉彬の7回忌がその命日(旧暦7月16日・新暦8月24日)に行われた。
早世を惜しんだかつての臣下は斉彬を偲ぶ詩歌を詠じたが、西郷隆盛だけは作らなかった。格式あるきちんとした文章を書くことで知られ、その文才には定評のあった西郷が、主君であり師である斉彬を偲ぶ詩歌を詠じなかったことに周りはその理由を質した。西郷は一言、「悲しすぎてとても詠じる気持ちになれない」と。
明治維新の功労者西郷隆盛を知らない日本人はいないだろう。この西郷に政治論のみならずアジア観・世界観を植え付けたのは薩摩藩第11代藩主島津斉彬だった。
ここでは、鎌倉時代からの名門島津氏に生まれた斉彬の生涯と、その名跡を紹介していく。
島津家の歴史は古い。応神天皇の頃(4世紀後半)に大陸から渡来した弓月君(ゆづきのきみ)という渡来人がいた。
彼は大陸から養蚕・機織りの技術を伝え朝廷に仕えたが、その子孫は泰氏を名乗った。弓月君が「我々は秦の始皇帝の子孫である」と主張したことから泰氏を名乗ったともいわれ、その伝えた技術の機織りから「はた」の音を用いたともいわれる。
この泰氏の子孫である惟宗氏(これむねし)から出た惟宗広言が、荘官として日向国島津荘に下り(12世紀後半頃)、その子忠久が源頼朝から地頭職を与えられて「島津氏」を名乗るようになったと伝わっている。この忠久は一説によれば頼朝の後胤であったとも・・・。
以後、元寇後(1274・1281年)に鎌倉幕府の九州統制の要として活躍したが、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に荷担し、のち足利尊氏の九州敗走時に与力した。薩摩・大隅・日向の守護として勢力を維持し、戦国時代には大友・竜蔵寺といった勢力と対峙しながらも一大勢力を保ち続けた。
豊臣秀吉の九州征伐に降伏・関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成方)に加担するも、三国は安堵され、江戸時代には徳川将軍家との姻戚関係によって地位を保った。
江戸時代の藩主には長命で子宝に恵まれた藩主が多かったため、将軍家でもまた他家でもその運気にあやかろうとするものが多かったといわれている。
やがて江戸時代晩期になると、貨幣経済の発達や本百姓体制の解体などを背景に、幕府や諸藩は財政窮乏に陥ることとなる。薩摩藩も例外ではなかった。斉彬の曾祖父重豪に見出された調所広郷は、債務の整理と奄美特産の黒砂糖の専売制などで藩政改革に成功し、薩摩藩は幕末雄藩としてその存在を強大化させた。